クォーツショックの歴史的背景
1960年代後半まで、時計業界は主に機械式時計が主流で、特にスイスが世界市場の約半分を占める圧倒的な地位を築いていました。
第二次世界大戦中も中立を保ったスイスは時計製造を続けることができたため、戦後も自国の復興に力を注ぐ必要がありませんでした。その結果、時計産業で実質的な独占状態を享受していたのです。
当時の各メーカーは機械式時計の精度向上にしのぎを削り、歯車やゼンマイを用いた精巧な機構をさらにブラッシュアップするべく切磋琢磨していました。
しかし、戦後の電子技術の発展に伴い、時計にも新たなテクノロジーの波が押し寄せ始めます。1950~60年代にかけて各国のメーカーが電子式時計の研究を進め、アメリカのブローバ社は音叉を利用した「アキュトロン」(1960年発売)で画期的な精度を実現しました。
またスイスでも複数社が共同でクォーツ腕時計の開発プロジェクト(CEH)を発足させ、日本のセイコーも並行してクォーツ技術の研究に注力します。そして1969年12月、セイコーが世界初のクォーツ式腕時計「セイコー アストロン(35SQ)」を発売しました(当時の大卒初任給の月収が約3万円でアストロンの定価は約45万円。高級品であることがうかがえる)。この出来事が引き金となり、1970年代から80年代初頭にかけて時計業界は大変革期に突入します。後に「クォーツショック」と呼ばれるこの変革で、時計の常識と産業構造は一変することになりました。
スイス時計産業への影響
クォーツショックはスイスの伝統的時計産業に壊滅的な影響を与えました。
正確で安価なクォーツ時計が普及すると、消費者はそちらを強く求めるようになり、それまで隆盛を誇った機械式時計の需要が急激に減少します。
当初、スイスの多くのメーカーはクォーツへの転換に慎重でした。その間に日本やアメリカのメーカーが市場を席巻し、スイス勢は深刻な経営難に陥りました。実際1970年頃にスイス国内に1600社以上あった時計メーカーは、1980年代半ばには600社を下回るまで減少し、時計産業の従事者数も約9万人(1970年)から3万人程度(1980年代半ば)に激減しています。
また、スイスの時計輸出数量も、1974年のピーク時と比べて80年代前半には半分以下に落ち込むなど、シェアは大きく縮小しました。
この危機的状況により、多くの老舗ブランドが倒産や再編を余儀なくされています。世界最古の時計メーカーであるブランパンは一時事業を休止し、IWCは倒産寸前まで追い込まれました。高級クロノグラフで知られたゼニスも機械式ムーブメント部門を売却し、ドイツの名門ランゲ&ゾーネも休眠状態になるなど、伝統ある企業が次々と姿を消したのです。
1980年代に入ると、スイスは産業復興に向けた動きを始めます。
1983年には経営難に陥っていた主要メーカーグループが銀行の支援のもと合併し、スウォッチグループを結成しました。この統合により生産の合理化と新たな戦略が打ち出され、象徴的な製品として低価格でカラフルなファッション時計「スウォッチ」が発売されます。
大量生産されたシンプルかつカジュアルなスウォッチは、安価な使い捨て感覚の腕時計という新市場を開拓し、大衆向け市場で大きく売り上げを伸ばしました。
一方で、高級路線に転じたメーカーもありました。ロレックス、オーデマピゲ、パテックフィリップなど一部の高級ブランドは機械式時計の伝統や職人技に価値を見出し、それを前面に押し出すことで生き残りを図りました。
機械式時計は実用品ではクォーツに及ばないものの、美術工芸品とも言える精巧さや歴史的価値が再評価され、次第に「ステータスシンボル」として高級市場で徐々に人気を取り戻していきました。このようにクォーツショックによる打撃の中で、スイス時計産業は安価なクォーツ市場への対応と機械式高級路線への特化という二方向で再生への道を模索したのです。
日本企業(セイコーなど)の動きと戦略
クォーツショックを語る上で、日本企業の戦略と躍進は欠かせません。
セイコーは1950年代から電子式時計の研究を開始し、東京オリンピック(1964年)でクォーツ式の精密計時装置(競技でタイムを計る機械)を成功させるなど技術力を蓄えてきました。
その集大成として1969年に世界初のクォーツ腕時計を商品化し、一躍時計界のトップランナーとして躍り出ます。セイコーは自社開発したクォーツ技術の特許を他社に公開するという大胆な戦略を取りました。これによりクォーツ方式は事実上の業界標準となり、スイスを含む世界中のメーカーがこぞってクォーツ腕時計市場に参入していきます。
セイコー自身も他社向けにクォーツムーブメント(時計の心臓部)の供給を始め、市場全体のクォーツ化を後押ししました。結果として腕時計は爆発的にクォーツ化が進み、誰もが安価で正確な時計を手にできる時代が到来したのです。
その後、セイコーは1970年代には海外販売網を急速に拡大しました。当時の腕時計生産は1971年に約1,400万個(その半数を海外へ輸出)、1978年には約1,900万個(その2/3を輸出)に達し、1980年にはついに生産数量で「時計王国」スイスを追い抜いて世界一になるほどでした。
クォーツショックによって失われたもの
クォーツショックは時計産業に多大な恩恵をもたらしましたが、その一方で様々なものが失われたのも事実です。
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伝統的技術と職人技の衰退
クォーツ化の波及により、機械式時計の製造技術やそれを支えていた職人たちの仕事が激減しました。何十年、何世代にもわたり受け継がれてきた高度な時計職人の技術がが必要とされなくなり、多くの熟練工が職を離れざるを得ませんでした。その結果、複雑機構の制作技術など伝統的かつ高度な技術が衰退してしまいました。 -
大量の雇用喪失
時計産業全体で見ると、クォーツショックにより世界的に大規模な雇用喪失が発生しました。前述の通りスイスでは数万人規模で雇用が消滅し、「時計の国」であった地域経済に深刻な影響を与えました。また他国でも、時計メーカーの統廃合や工場閉鎖が相次ぎ、従来のサプライチェーンも崩壊したため、生産から販売まで広範な分野で雇用打撃が発生しました。 -
時計に対する価値観の変化
それまで高級機械式時計は精密機械であり宝飾品でもあって、所有すること自体がステータスであり、一生ものとして子から子へと受け継がれる存在でした。
しかし、正確で安価なクォーツ時計が登場すると、時計は「時刻を知るための実用品」という側面が強まり、壊れたら修理するより買い換える、流行に合わせて手軽に複数持つ、といったスタイルが一般化し、時計に対する愛着や敬意は薄らいでいきました。特に若い世代にとっては機械式時計は時代遅れの遺物と映り、1970年代~80年代には機械式時計が店頭から消えてしまう国もあったほどです。時計産業にとって、自社のブランドや歴史に込められた価値を消費者に感じてもらえなくなったことは大きな損失でした。
まとめ
このようにクォーツショックは技術革新による明るい変化をもたらす一方で、従来の時計文化や産業基盤に痛みを伴う破壊的影響を与えました。
しかし、その後の展開として1990年代以降に機械式時計が嗜好品・芸術品として見直され、現在でも多くの人に敬愛されています。一度失われたからこそ、再度時計の魅力を再認識することができたのかもしれません。
クォーツショックによって一度失われかけた手作業の価値や時計への愛着は、形を変えながらも現代に受け継がれ、機械式とクォーツ式が棲み分けて共存する現在の市場が完成したのです。


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